山河あり

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休題ー休み、休み

 ブログを断念したのではない。書けないのである。それは、確かに聞いたことのある”みっちゃん”のことなのだが、余りにも作り話くさい。でも、書きたい。それには真実に迫らねばならぬ。だが、確かめるすべがない。伝聞形式では書けない話である。いくつか資料を集めてみたが納得がゆかない。書けるようになるまで熟ますしかないのである。書けるようになるまでこのブログを放置するのか…。この数ヶ月逡巡し、「ブログは捨てない」との結論・決意にいたった。幸い読者はいないのであるから、また書けるようになるまで迷走しようというわけである。もし、読者がおられるなら、筆者の我が儘をお詫びする他はないのである。

 バカも休み休みという。本題は休題にして、少し余話におつき合い!願いたい(どこまで行っても余話につきたということになるかもしれないのであるが…)。

 大江健三郎氏が朝日新聞に「定義集」というコラムを連載されはじめて久しい。その07年8月21日号(18面)で、「『戦後少年』らの言葉の力」という一文を寄せられた。直接には先般亡くなられた小田実氏を悼みつつ、鶴見俊介、加藤周一、多田富雄各氏の言葉や行動を取り上げ、「『大きな人』と共生してきた」感慨を語られているのであるが、私はその括りの文章に啓発された思いがする。その件(くだり)は少し長いが、ここに引用しておこう。
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  選挙で発せられた国民の声は聞かず、不思議な確信をこめて語る首相に、私はこの人の尊敬するお祖父さんの60年の声明を思い出します。ーー声ある声に屈せず声なき声に耳を傾ける。
  「戦後レジームからの脱却」というあいまいな掛け声が一応の魅力を持つのは、じつは脱却した後のレジームが具体的には示されていないからです。それだけに、政府が変わ っても生き続けそうな気がします。これに抵抗する手がかり実体は、戦後の民主主義のレ ジームに勇気づけられた世代から手渡してゆかねばなりません。
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 もちろん、参院選での惨敗をよそに続投を表明した安倍晋三首相とその祖父の言をひいた文章であるが、私はこの文章から「閉塞感」の二つの側面に思いを馳せたのである。
 私はかねて国民の多くの間に展望を見いだしがたい閉塞感が漂っているように読み取ってきた。難民という言葉がそれを象徴している。自公政権による相次ぐ福祉や医療の切り捨て、労働条件の改悪が強行されたうえに、この日本が再び戦争に巻き込まれる時代が来るのでは無いか、という類の果てしなき将来不安、etcがその誘因である。庶民の悪戦苦闘、奮闘努力が何の実を結ぶのか…、といった切ない閉塞感である。それらは、戦後民主主義の根幹である国民主権、基本的人権、平和主義が突き崩されるのを阻みきれないのではないかという不安とあせりからくる閉塞感である。
 だが、どうだろう。安倍氏も実は戦後レジーム、つまりまさにその体系である「憲法」がしめすレジームを壊しても壊しても壊しきれないというあせり、衝動を隠せないのではないか。保守本流・反動ともいうべき勢力は戦後の60年こそ閉塞の時代であったと捉えているのである。彼らの閉塞感には根拠がある。憲法の枠組みに縛られてきたという意味で…。
 国民の側にある閉塞感は、克服可能である。戦後民主主義の原点に立ち返れ…!と語ること、憲法を守れ!と語ることには展望がある。それが示しているのはもっと世の中を前進させよう!という合図であるから…。
 彼らにある閉塞感は打開不可能である。世の中をバックさせよう!戦前に戻ろう!という合図は合意が得られない。だから、脱却した後のレジームは「具体的には示されていない」し、「示すことができない」のである…。
  こう読んでみると、国民の中にある、そこはかとない「閉塞感」を克服して、前にすすもう!と呼びかけている「戦後少年」こそ、未来への頼もしい先達なのだという実感を深くする一文であると思う。
 
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by sanngaarii | 2007-08-21 23:02 | 焼け跡・闇市幼年時代