山河あり

ブログトップ

2 塘沽から仙崎港へ  Ⅰ ー ⅲ

 上陸は1946年(昭和21年)春のようだ。仙崎港での引揚げピークの時期である。
 引揚げ第一陣が仙﨑に上陸したのは敗戦の翌月、9月2日だ。45年(昭和20年)8月15日の「終戦」から僅か半月後。信じがたいほどの早さである。その日、仙﨑港には7千人が上陸したといわれるのだが、正確な数字だろうか。
 戦勝の喜びに酔い、歓喜する中国人民の暴発や報復を在留邦人は怖れた。前途への不安が募る中、一様に一刻も早い帰国をめざして焦っていた。母もまた然り。それを止めたのは父であった。 
 「うちはなァ、早う帰りたいていうのにお父ちゃんがなァ、止めたンや」
 「これから冬になる。旅行やないんや。どれだけの日程がかかるかわからん。こんな寒いとこや。この子を連れて帰るのは危ない」
 「春まで待て、といわれたんや」
 敗戦がわかってもすぐに帰国の段取りはできなかった。瞬く間に冬が目前に迫っている。厳寒の中国大陸を着の身着のままで縦断することがどんなに危険な冒険であることか。結婚を機に中国に渡ってきたばかり。子どもができたとはいえ、まだ24歳の女性にはその危険を予知することができなかった。しぶしぶ夫の意見に従ったのである。
 その逃避行、難民状態での「引揚げの旅」は山西省愉次県愉次城内から始まっている。どこの港から仙崎に向かったのか。問わず語りに記憶をたどる言葉の端々にしばしば「天津」という地名が出てくる。
 天津には「塘沽」という地区がある。渤海湾に面した港町である。仙崎港で受け入れた引揚げ船の大半は朝鮮の釜山、中国のコロ島、上海、塘沽から帰港している。
 「お父ちゃんが生きてたらわかるんやけどなァ。塘沽ってわかれへん。愉次から、太原、北京、天津を通って引き揚げてきたんや。あんたの世話で必死やったんや。どこを通ってるかなんて考えてる間なんかあるかいな」
 不正確きわまりない話だが、この経路を辿って帰国したことにしておこう。
 
[PR]
by sanngaarii | 2007-02-03 16:50 | 焼け跡・闇市幼年時代