山河あり

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2 塘沽から仙崎港へ  Ⅰ ー ⅱ

 「日本がこんなに綺麗なとこやと思たんは初めてやった。ホンマにきれいやった」
 「どこから船に乗ったんか覚えてない。どこへ着くんか知らんかった。春やったから桜が咲いてたと思うけど、違うかも知れへんなァ。綺麗なとこやった」
 祖国、母国に帰ったという実感は全くない。そもそも「外国にいた」という実感が無かった。居たのは「外地」ではあったが「中華民国」という外国であるとは思っていなかった。北支という「外地」から日本という「内地」に帰ってきたのである。乳呑み児をかかえて。
 仙崎港はかつては捕鯨でならした漁港である。1万トン級の船を碇泊させることができるほどの良港であった。軍港の面影など全くといって良いほどない。その静かで、綺麗な港に引き揚げ船が幾度となく往還し、漁港というには似つかわしくないほど人があふれた。わずか一年二ヶ月の間に41万人もの引揚者がこの港に降り立ち、還りには朝鮮に帰国する34万人の人々が乗り込んだという。
 仙崎では興安丸という後に引き揚げ船の代名詞になった船の絵葉書が売られている。しかし、乗ってきたのはそんなに立派な船ではない。
 「兵隊を乗せて砂浜にざあっと乗り上げられる船や」
 どうやら上陸用舟艇のようなものであったらしい。記録を探してみると「戦時中に大量の輸送船が徴用されたため、輸送機関の不足が引揚げの障壁となった」とある。「アメリカから200隻余のLST船が貸与」され、急場をしのいだこともわかった。
 船医は乗っていた。偶然なのか、配置されていたのか。定かではない。治療できるような薬などほとんどないが、医者は医者である。乳呑み児が生死の境を彷徨っていると診断した。
 「あんたがえらい熱を出して死にそうやった。お医者さんがぼろくそに怒るんや。この子はあんたの子やない。天皇の赤子や。死なせたら申し訳ないやろ言うて…。もう戦争に負けてたのになァ」
 「この子を何とか陸まで連れていきたい。必死やったで。船で死んだら水葬いうてなァ。海に放ってしまわなあかんのやから。気の毒やったでェ。わたしの持ってたアスピリンを小っちょう砕いて、ちょっとづつ呑ましたんや。あんたはアスピリンのお陰で命拾いしたんや」
 船出したのが中国の港だったのか、朝鮮だったのか。その港の名前も、何日船に乗っていたのかも覚えていない。ともかく親子三人、どうやら無事で上陸を果たせたのである。   
 「すぐに行くアテのある人は民家に泊めてもらえたけど、うちらは何処に行くかはっきり決まってへん。しょうがないから、学校の講堂に泊めてもろたんや」
 
 
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by sanngaarii | 2007-01-30 12:13 | 焼け跡・闇市幼年時代