山河あり

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肩肘を張りすぎた!反省!

生い立ちの中の忘れがたいことを少しは記録しておきたい!
なのに、肩肘を張りすぎている!
もう何年も逡巡しているのだ!
これまで書いたことを、白紙に戻さず書き続けよう!
ボクには勇気のいることなのだが…!

ゼロからの出発であること。
ゼロには戻さず再開すること。
ご了解いただきたい。
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# by sanngaarii | 2010-04-22 02:01 | 焼け跡・闇市幼年時代

休題中ながら…!再開の心準備へ…!

 うっかりして、同じexciteを借りて、別のブログを開いてしまった!だから、もうこのブログは開けなくなってしまったのか?と落胆した。探してみるとブログは残っている。新しいブログに貼り付けはしたが、もうカキコはできないと諦めていた。
 ところが、ある日試みてみると…。書き込めるではないか!少し嬉しかった。だが、書き続ける元気はなかった。考え続けた。ようやく、続きを書こうかな!という元気、勇気のようなものが湧きつつある。母は88歳の米寿を迎えた。ボクはもうすぐ65歳を迎える。その時までには再開したい。
 数年前、仙﨑の港に立ったとき、これでようやく踏ん切りをつけて中国へ行ける心境になれるかもしれないと思ったのだが、やっぱり行けなかった。引揚げの苦労の悲惨さと、侵略の事実を真っ正面から見つめることのできない母の思い出話は、ボクには苦しいのである。
 しかし、戦後焼け跡幼少時代、というべきボクの生い立ち、遍歴はどこかに書き留めておきたい気持ちはするのである。聞き書きのような、作り話のような曖昧模糊とした記録は罪深いのかもしれないと考えつつ、書き継ごうと思うのである。
 眺めてみると、最後の書き込みは07年8月21日とある。安倍首相の強引ぶりが目についていた。その後、福田首相が誕生したが、この二人は任期半ばで挫折してしまった。跡を継いだ麻生首相は目下低迷中だが、対する民主党の小沢一郎氏の献金問題・敵失のおかげで命拾いしている。世はめまぐるしい激動のさなかなのである。
 本題の方は、07年2月3日が最後だ。長い、長い休みだった。ぼちぼち、ふつふつ、目を覚まさねばならない…。
 
 
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# by sanngaarii | 2009-03-28 11:33 | 焼け跡・闇市幼年時代

休題ー休み、休み

 ブログを断念したのではない。書けないのである。それは、確かに聞いたことのある”みっちゃん”のことなのだが、余りにも作り話くさい。でも、書きたい。それには真実に迫らねばならぬ。だが、確かめるすべがない。伝聞形式では書けない話である。いくつか資料を集めてみたが納得がゆかない。書けるようになるまで熟ますしかないのである。書けるようになるまでこのブログを放置するのか…。この数ヶ月逡巡し、「ブログは捨てない」との結論・決意にいたった。幸い読者はいないのであるから、また書けるようになるまで迷走しようというわけである。もし、読者がおられるなら、筆者の我が儘をお詫びする他はないのである。

 バカも休み休みという。本題は休題にして、少し余話におつき合い!願いたい(どこまで行っても余話につきたということになるかもしれないのであるが…)。

 大江健三郎氏が朝日新聞に「定義集」というコラムを連載されはじめて久しい。その07年8月21日号(18面)で、「『戦後少年』らの言葉の力」という一文を寄せられた。直接には先般亡くなられた小田実氏を悼みつつ、鶴見俊介、加藤周一、多田富雄各氏の言葉や行動を取り上げ、「『大きな人』と共生してきた」感慨を語られているのであるが、私はその括りの文章に啓発された思いがする。その件(くだり)は少し長いが、ここに引用しておこう。
         ☆           ☆           ☆
  選挙で発せられた国民の声は聞かず、不思議な確信をこめて語る首相に、私はこの人の尊敬するお祖父さんの60年の声明を思い出します。ーー声ある声に屈せず声なき声に耳を傾ける。
  「戦後レジームからの脱却」というあいまいな掛け声が一応の魅力を持つのは、じつは脱却した後のレジームが具体的には示されていないからです。それだけに、政府が変わ っても生き続けそうな気がします。これに抵抗する手がかり実体は、戦後の民主主義のレ ジームに勇気づけられた世代から手渡してゆかねばなりません。
         ☆           ☆           ☆
 もちろん、参院選での惨敗をよそに続投を表明した安倍晋三首相とその祖父の言をひいた文章であるが、私はこの文章から「閉塞感」の二つの側面に思いを馳せたのである。
 私はかねて国民の多くの間に展望を見いだしがたい閉塞感が漂っているように読み取ってきた。難民という言葉がそれを象徴している。自公政権による相次ぐ福祉や医療の切り捨て、労働条件の改悪が強行されたうえに、この日本が再び戦争に巻き込まれる時代が来るのでは無いか、という類の果てしなき将来不安、etcがその誘因である。庶民の悪戦苦闘、奮闘努力が何の実を結ぶのか…、といった切ない閉塞感である。それらは、戦後民主主義の根幹である国民主権、基本的人権、平和主義が突き崩されるのを阻みきれないのではないかという不安とあせりからくる閉塞感である。
 だが、どうだろう。安倍氏も実は戦後レジーム、つまりまさにその体系である「憲法」がしめすレジームを壊しても壊しても壊しきれないというあせり、衝動を隠せないのではないか。保守本流・反動ともいうべき勢力は戦後の60年こそ閉塞の時代であったと捉えているのである。彼らの閉塞感には根拠がある。憲法の枠組みに縛られてきたという意味で…。
 国民の側にある閉塞感は、克服可能である。戦後民主主義の原点に立ち返れ…!と語ること、憲法を守れ!と語ることには展望がある。それが示しているのはもっと世の中を前進させよう!という合図であるから…。
 彼らにある閉塞感は打開不可能である。世の中をバックさせよう!戦前に戻ろう!という合図は合意が得られない。だから、脱却した後のレジームは「具体的には示されていない」し、「示すことができない」のである…。
  こう読んでみると、国民の中にある、そこはかとない「閉塞感」を克服して、前にすすもう!と呼びかけている「戦後少年」こそ、未来への頼もしい先達なのだという実感を深くする一文であると思う。
 
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# by sanngaarii | 2007-08-21 23:02 | 焼け跡・闇市幼年時代

2 塘沽から仙崎港へ  Ⅰ ー ⅲ

 上陸は1946年(昭和21年)春のようだ。仙崎港での引揚げピークの時期である。
 引揚げ第一陣が仙﨑に上陸したのは敗戦の翌月、9月2日だ。45年(昭和20年)8月15日の「終戦」から僅か半月後。信じがたいほどの早さである。その日、仙﨑港には7千人が上陸したといわれるのだが、正確な数字だろうか。
 戦勝の喜びに酔い、歓喜する中国人民の暴発や報復を在留邦人は怖れた。前途への不安が募る中、一様に一刻も早い帰国をめざして焦っていた。母もまた然り。それを止めたのは父であった。 
 「うちはなァ、早う帰りたいていうのにお父ちゃんがなァ、止めたンや」
 「これから冬になる。旅行やないんや。どれだけの日程がかかるかわからん。こんな寒いとこや。この子を連れて帰るのは危ない」
 「春まで待て、といわれたんや」
 敗戦がわかってもすぐに帰国の段取りはできなかった。瞬く間に冬が目前に迫っている。厳寒の中国大陸を着の身着のままで縦断することがどんなに危険な冒険であることか。結婚を機に中国に渡ってきたばかり。子どもができたとはいえ、まだ24歳の女性にはその危険を予知することができなかった。しぶしぶ夫の意見に従ったのである。
 その逃避行、難民状態での「引揚げの旅」は山西省愉次県愉次城内から始まっている。どこの港から仙崎に向かったのか。問わず語りに記憶をたどる言葉の端々にしばしば「天津」という地名が出てくる。
 天津には「塘沽」という地区がある。渤海湾に面した港町である。仙崎港で受け入れた引揚げ船の大半は朝鮮の釜山、中国のコロ島、上海、塘沽から帰港している。
 「お父ちゃんが生きてたらわかるんやけどなァ。塘沽ってわかれへん。愉次から、太原、北京、天津を通って引き揚げてきたんや。あんたの世話で必死やったんや。どこを通ってるかなんて考えてる間なんかあるかいな」
 不正確きわまりない話だが、この経路を辿って帰国したことにしておこう。
 
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# by sanngaarii | 2007-02-03 16:50 | 焼け跡・闇市幼年時代

2 塘沽から仙崎港へ  Ⅰ ー ⅱ

 「日本がこんなに綺麗なとこやと思たんは初めてやった。ホンマにきれいやった」
 「どこから船に乗ったんか覚えてない。どこへ着くんか知らんかった。春やったから桜が咲いてたと思うけど、違うかも知れへんなァ。綺麗なとこやった」
 祖国、母国に帰ったという実感は全くない。そもそも「外国にいた」という実感が無かった。居たのは「外地」ではあったが「中華民国」という外国であるとは思っていなかった。北支という「外地」から日本という「内地」に帰ってきたのである。乳呑み児をかかえて。
 仙崎港はかつては捕鯨でならした漁港である。1万トン級の船を碇泊させることができるほどの良港であった。軍港の面影など全くといって良いほどない。その静かで、綺麗な港に引き揚げ船が幾度となく往還し、漁港というには似つかわしくないほど人があふれた。わずか一年二ヶ月の間に41万人もの引揚者がこの港に降り立ち、還りには朝鮮に帰国する34万人の人々が乗り込んだという。
 仙崎では興安丸という後に引き揚げ船の代名詞になった船の絵葉書が売られている。しかし、乗ってきたのはそんなに立派な船ではない。
 「兵隊を乗せて砂浜にざあっと乗り上げられる船や」
 どうやら上陸用舟艇のようなものであったらしい。記録を探してみると「戦時中に大量の輸送船が徴用されたため、輸送機関の不足が引揚げの障壁となった」とある。「アメリカから200隻余のLST船が貸与」され、急場をしのいだこともわかった。
 船医は乗っていた。偶然なのか、配置されていたのか。定かではない。治療できるような薬などほとんどないが、医者は医者である。乳呑み児が生死の境を彷徨っていると診断した。
 「あんたがえらい熱を出して死にそうやった。お医者さんがぼろくそに怒るんや。この子はあんたの子やない。天皇の赤子や。死なせたら申し訳ないやろ言うて…。もう戦争に負けてたのになァ」
 「この子を何とか陸まで連れていきたい。必死やったで。船で死んだら水葬いうてなァ。海に放ってしまわなあかんのやから。気の毒やったでェ。わたしの持ってたアスピリンを小っちょう砕いて、ちょっとづつ呑ましたんや。あんたはアスピリンのお陰で命拾いしたんや」
 船出したのが中国の港だったのか、朝鮮だったのか。その港の名前も、何日船に乗っていたのかも覚えていない。ともかく親子三人、どうやら無事で上陸を果たせたのである。   
 「すぐに行くアテのある人は民家に泊めてもらえたけど、うちらは何処に行くかはっきり決まってへん。しょうがないから、学校の講堂に泊めてもろたんや」
 
 
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# by sanngaarii | 2007-01-30 12:13 | 焼け跡・闇市幼年時代

2 塘沽から仙崎港へ  Ⅰ ー ⅰ

 「お〜い!陸が見えるぞぉ〜!内地だぞぉ〜!」という声に「わ〜っ!」という歓声が広がった。船底から次々と人があがってくる。男も女も必死に目をこらしている。が、島影はまだぼんやりとしか見えていない。
 お構いなく、乗客たちは見とれていた。口々に「やっぱり綺麗だねェ、日本は」と叫ぶように言葉をかわしあっている。船足は速くはなかったが、青海島の青みが少し濃くなった。ぼんやりとしか見えないのは距離が遠いからばかりではなく、桜の花が山並みを覆いつくしているからでもあるようだ。
 「でもねェ。それから上陸まで二日もかかったんやで」
  湾のあちこちにはまだ機雷が残っているかもしれないという。安全を確認していたのか、掃海をしていたのか。じりじりと待つ乗客たち、つまり「引揚者」には詳しい説明はなかった。
 上陸したのが山口県の仙崎港であったことを父も母も長く語らなかった。どこでも良かったのか、軽々しく言ってはならぬことだったのか、あえて聞いてはいない。
 この港が「引揚者」の敗戦の終着点であり、この港から戦後が始まったのである。そのためか引揚者の意識のなかでは、帰国できた時期の差によって敗戦の終わりや戦後の始まりが少しずつ微妙にずれている。復員兵にとっても同じことかも知れない。
 中国残留孤児や、非道な道に追いやられざるを得なかった「従軍慰安婦」にとっては未だに終戦の終着点にもたどり着けず、もちろん戦後の生活すら始まっていないのである。終戦のどさくさの中に取り残されているわけだ。
 
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# by sanngaarii | 2007-01-28 12:33 | 焼け跡・闇市幼年時代

1 序章

 確かに何かを始めようとしている。初老の男が再三思案した結果の行いである。本当に始めるのか。続けることはできるのか。確たる結論も確信もない。だが、日々に思い起こすこと、日々に忘れ去ってゆくこと。その中には半ば公開しつつ、自ら反芻・反省しつつ、どこかに伝わって欲しいような事件や事柄がある。このブログを開こうとしているのは確かにわたくし(私)である。だが、わたくし(私)に止まらない感傷や悲哀、喜びを共有・共感いただけるかもしれない。
 足での取材は覚束ない。いちいち時代の考証にも取り組まない。思い違いや不正確な事柄を記述するかも知れない。今と昔の境目を飛び越えるかも知れない。その意味では雑感としか言えないかも知れない。責任は感じるのだが、それにしても無責任な話ではある。
 その意味で世の中には迷惑なことであろうが、「わたくし(私)のつくり話」を始めたいのである。2007年8月に63歳を迎える男の「つくり話」である。
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# by sanngaarii | 2007-01-28 00:50 | 焼け跡・闇市幼年時代